大正四年 旧 十二月 二日  
     
  大国常立尊変性男神(おおくにとこたちのいことへんじょうなんし)の身魂が、皇威発揚(いつき)の神と現われて、三千世界の三段に別けて在る御魂を、夫(そ)れ夫(ぞ)れに立替え立別けて、目鼻を付けて、先ず是(これ)で楽じゃと申すように成るのは、大事業(たいもう)であるぞよ。
二度目の世の大革正(たてかえ)は、戦乱(いくさ)と天災とで済むように思うて、今の人民はエライ取り違いを致して居るなれど、戦争(いくさ)と天災とで人の心が直るのなら、埓能(らちよ)う出来るなれど、今度の世の立替えは、其(そ)んな容易(たやす)い事でないぞよ。
昔から立替えは在りたなれど、臭い物に蓋をした様な事ばかりが仕て有りたので、根本からの動きの取れん立替えは致して無いから、これ迄のやりかたは、御魂は猶悪(なおわる)くなりて、総曇りに成りて居るから、今度は一番に、霊魂界(みたま)の世の二度目の立替えであるから、何に付けても大望であるぞよ。
是程(これほど)曇り切りて居る三千世界の身魂を、水晶の世に致して、モウ此(この)の后(さき)は曇りの懸(かか)らんように、万古(まんご)末代世を持ちて行かねば成らんから、中々骨の折れる事であるぞよ。
天地の大神の思いと人民の思いとは、大きな違いであるから、何に付けても、今度の仕組は、人民では汲み取れんぞよ。人民一人を改心させるのにも、中々に骨が折れようがな。
今度の二度目の世の立替えは、昔の初まりから出来て居る霊魂の立替え立直しで在るから、悪い霊魂(みたま)を絶滅(のう)して了(しも)うてするなら、容易(たやす)く出来るなれど、悪の霊魂(みたま)を善へ立替えて、此の世一切の事を、経綸策(やりかた)を替えて、神法(のり)かえて、新(あら)つの世の純粋(きっすい)の元の日本魂(やまとだましい)に仕て了(しま)うのであるから、今の人民の思うて居る事とは、天地の大違いであるから、毎度筆先で気を付けて在るぞよ。
あやべの大本(おほもと)の中には、世界の人民の心の通りが、皆にして見せてあるぞよ。大本(おほもと)は世界の鏡の出る処(ところ)であるから、世界に在る実地正末(じっちしょうまつ)が、皆にさして見せて在るから、色々と心配を致して居るなれど、何んなかがみも仕て見せて在るから、世界が能く成る程、この大本(おほもと)は善くなるぞよ。今ではモチト、何事も思うように無いのであるぞよ。
世界の事が皆大本(おほもと)に写るから、夫(そ)れで此(こ)の中から行状(おこない)を善く致さんと、世界の大本(おおもと)と成る尊い処であるから、何事も筆先通りに為(し)て行かねばならんぞよ。是迄の世のやりかたは、日本の国では用いられん、がいこくの極悪のやりかたに変わりて了(しも)うて居るのを、日本の人民は、知らず知らずにさせられて居りたので在るから、分からんのはもっともの事であるぞよ。日本の加美(かみ)が抱き込まれて、加美(かみ)の精神が狂うて居るのであるから、人民が悪う成るのは当然であるぞよ。
モ一つ此(こ)の先を、悪を強く致して、この現状(なり)で世を建てて行く、どいらい仕組(しぐみ)をして居るなれど、モウ悪の霊の利かん時節が循環(まわ)りてきて、悪神(わるがみ)の降服(おうじょう)いたす世になりて来たから、我の口から我が企(たく)みて居りた事を、全然(さっぱり)白状いたす世になりたぞよ。
天地の御先祖さまを押し籠(こ)めて置いて、此(こ)の世に恐いもの無しで、元の大神様の光輝(ひかり)の出ぬように致した極悪の頭目(かしら)で在るという事を、何も白状致して、善へ立ち返りて、どんな活動(はたらき)でも致すと申して居るなれど……。
外(ほか)の御魂が、一平(いったい)らに悪に成り切りて居るから、是(これ)を善一つの道に歩まして、世を立直すのは、元の世界を創造(こしらえ)るよりも、何程大きな骨が折れるか知れんぞよ。この大望な三千世界の立替えを、小さい事に取りて、大神(おおかみ)の力に成る守護神はないぞよ。
これほどウジャルほど守護神は在りても、皆思いが違うから、何彼(なにか)の事が遅くなりて居るぞよ。遅くなるほど、世界中が難渋となりて、後へも前へも、手も足も取り付く島も無くなるぞよ。
世界の御魂が九分まで悪に化(な)りて、今まで世を持ち荒して来た守護神に、改心の出来かけが何(ど)の様にも出来んから、神も堪忍袋を切らして一作に致せば、八九分の霊魂が無く成るし、改心致さす暇(ま)がモウ無いし、是(これ)程この世に大望な事は、昔から未だ無い困難な二度目の世の立替えであるのに、何も分からぬ厄雑神(やくざがみ)に使われて居ると、何も判らんぞよ。
まことの行(ぎょう)も致さずに、天地の先祖を無視して、悪のやりかたで世界の頭になりて、此の先を悪をモーつ強く致して、まぜこぜで行りて行こうとの初発の目的通りに、此所(ここ)まではとんとん拍子に、面白い程上りて来たなれど、此の日の本には、神の深い経綸(しぐみ)が世の元から致して在りて、日本の仕組(しぐみ)通りに九分九厘まで来たぞよ。
悪神(わるがみ)の仕組(しぐみ)も九分九厘までは来たなれど、モウ輪止まりとなりて、前へ行く事も出来ず、後へ戻る事も出来んのが、現今(いま)のことであるぞよ。仕放題の我好しの行り方で、末代の世を悪で建てて行こうとの目的が、今までは面白い程のぽれたなれど。
日本の国には、チット外の御魂には判らん経綸(しぐみ)が為(し)てあるから、人も善し我も善し、上下揃うて行かねば、国の奪(と)り合いを為(す)るような見苦敷(みぐるし)い性来では、世は永久は続かんぞよと申して、筆先に出して気を付けてあるぞよ。  
斯の世は善と悪とを拵(こしら)えて、何方(どちら)でこの世が立つかということを、末代続かせねば成らん世であるから、何事も天地から為(さ)してあるのであるから、我が為(し)て居るのなら、何事も思うたように行けんならんのに、何うしても行けんのが、神から皆為せられて居る証拠であるぞよ。
善の道は苦労が永いなれど、此(こ)の先は末代の世を続かすので、中々念に念が入るぞよ。
ぶつじは悪のやりかたで在りたぞよ。モウ是(これ)からは、ぶつでは治まらんぞよ。
善の行は永いなれど、善の方には、現界幽世(このよ)に何一つ知らん事の無い様に、世の元から行(ぎょう)が為(さ)してあるから、此(こ)の先は、悪で仕放題に行(ぎょう)無しに出て来た守護神が辛くなるぞよ。如何(どん)な事も為(し)ておくと、何事も堪(こば)れるなれど、行無しの守護神に使われて居ると、世の終いの初まりの御用は勤まらんぞよ。
善と悪との変わり目であるから、悪の守護神はジリジリ悶(もだ)える様になるから、一日も早く改心致して、善の道に立ち帰らねば、モウこれからは貧乏動(ゆる)ぎも為(さ)さんぞよ。
善の守護神は数は斟(すく)ないなれど、何んな行も為してあるから、サア今という様に成りて来た折には、何程烈しきことの中でも、気楽に神界の御用が出来るから、一厘の御手伝いで、日本の世の大本には、肝心の時に間に合う守護神が拵(こしら)えて在りて、世界の止めを刺すのであるから、日本の国は小そうても、大きな国には負けは致さんぞよ。
日本は世界から見れば、小さい国であれど、天と地との神力の強い本の先祖の神が、三千世界へ天晴(あっぱれ)と現われて御加勢あるから、数は少のうても正味の御魂ばかりで、何んな事でも致すぞよ。何程人数が多くても、何の役にも立たぬ、善い事は一つも能(よ)う為(せ)ずに邪魔斗(ばか)りを致すから、世界の物事が遅くなりて、世界中の困難であるが、未だ気の付く守護神が無い故に、何時までも筆先で知らすのであるぞよ。
天地の御恩も知らずに利己主義(われよし)で、茲(ここ)まで昇りつめて来た悪の守護神に、改心の為(さ)せかけが出来んので、何事も遅くなりて、総損害(そうそこない)に上から下までの難渋となるから、明治二十五年から今じゃ早じゃと申して、引掛戻しに致して気の付く様に知らしても、元からの思いが大間違いで在るから、世界の立替えの九分九厘と成りた処で、ジリジリ舞う事が見え透いて居るから、気を付けるぞよ。
天地の先祖の思いの判りて居る守護神と人民は、今に無いぞよ。
是程暗がりの世の中へ、世の元の正末(しょうまつ)の水火神(いきがみ)が揃うて表われても、恐い斗(ばか)りで、腰の抜けるものやら、顎が外れて、早速には物も能(よ)う言わん様な守護神や人民が、沢山出来る斗(ばか)りで、神の目からは間に合いそうに無いぞよ。
判りた御魂の宿りて居る肉体でありたら、何んな神徳でも授けるから、此の神徳を受ける御魂に使われて居りたら、一荷に持てん程神徳を渡すから、其の貰うた神徳に光を出して呉れる人民で無いと、持ち切りに為ては、天地へ申し訳が無いぞよ。
 
     
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